駒津の記録

僕の考えていたことや経験したことを書きます 

高円寺へ行く度に足が止まる場所がある

居酒屋をやめてから、正確には支店、高円寺店が無くなってからはあの町へいく用事は麻雀を打ちに行く時くらいなもので

たまに散歩とか、古着屋をチラ見したりもするけれど、昔より行く頻度も滞在時間もすっかり少なくなったな、と感じる

 

当時はどうだっただろうか、大学生のころ

授業にしっかり寝坊をして、まず通学は諦める、17時の出勤までどうしようか、そんな時はだいたい自然と足が向いていた

たくさんの居場所があった、いつも迷惑をかける水煙草屋で黙々モクモクしたり、ダンブルドアみたいなオーナーのいる喫茶店で、オーナーの肩を揉みながら喋ったり、喋ったことは大抵大きな尾ひれが付いて収集のつかないことになってたり

そうして夕方になると高架下の店へ出勤する

シャッターをこじ開けておはようございますと言うと、大抵は既に素面ではない店長が煙草を吸っているだろう

北口バスロータリー周辺の八百屋やドラッグストアにお使いに行った後は、大抵昨日の洗い物がたくさんのこっているのでそれをやっつけていく

僕が入って一年程経った頃には食洗機の配線がネズミにやられ、冬場はずっと冷たい水で手洗いをしていたのも懐かしい

 

重いシャッターを開けると一直線に見えるのは高架の屋根、この店から出ないことには日光を浴びることなんて叶わない、モグラみたいだなと思っていた

 

店長の当時の彼女(僕のネットの知り合い、いろいろあった)が書いた オープンの札を雑に置いて、今は何故か僕の家にある看板を出す

オープンして暫くはお客さんは来ない事が多く、大抵はその間に店長と喋りながら店の酒を飲んで、僕が煙草を吸いに裏に行く時に限ってお客さんがやってくる、お客さんを召喚するために煙草を吸いに行くこともあったくらい、煙草を吸うと客がくる

大抵は常連や友人だ、一杯飲みなよ、と言われて乾杯をする、無論一杯もらう前から我々は呂律が既に怪しいレベルになっている

 

もしもあの店にドリンクバックがあれば僕は一体いくら貰えたのだろう、と考えることがあった

貰ったときは何を頂いたとしてもチューハイ350円で伝票につけていたので、せいぜい一杯あたり50円が関の山かもしれないが、それでも一年に150杯は頂いていたと言っても過言ではないだろう

 

そうしてべろべろになり退勤したり、店長が眠ってしまったにも関わらず常連は飲み続けることで朝まで退勤できなかったり、そうしてふらふらとした足取りで帰る

そんな生活を4年繰り返し見事に大学を中退した、でも僕はもしそこで働いてなくても恐らく大学を中退していたと思うから、そこに恨みも後悔もない

 

 

先日、高円寺から歩いて帰る機会があったので、ついでにぐるりと一周町の様子を見てきた

 

コロナ前と比べると駅前にガールズバーのキャッチが増えて、代わりにキャバクラのキャッチは減ったな、常連に無理矢理連れていかれたあの店はまだ生きてるのだろうか、偶然フォロワーが働いていたな

 

駅前ロータリーは緊急事態宣言によりお店が閉まりだした頃から、むしろいっそう賑やかになったよな、年中花見をしているような、夕方になるといくつものグループが缶チューハイを飲みながら、会話をしたり、楽器を奏でたり、絵を描いていたり

行きつけの喫茶店は営業時間が縮んだし、僕も出勤時間が早くなったことですっかり顔を出せなくなった

 

高架下は、すっかり再開発も終わり、なんとも綺麗な飲食店が立ち並んでいた

近くにあった、仲が良くて何度もオテツダイをした店たちも見てみる

ネズミ蔓延るビール屋も閉店していた、中国人の女将がやっているおでん屋はこのシーズンは営業していないみたいだ

 

ここら一帯は、この町の中でも、僕の一番居た場所だったから、少し寂しくて、未だに通りかかる度に、つい足を止めてしまう

 

そうして高架下から少し外れて、家に向かう途中で、先日亡くなった常連の家を見ようと思った

これもまた何度かオテツダイをしていた関係で場所を知っていた

葬儀とか、勝ってた犬の事とか、どうなったのかわからないことばかりだったので気になってみにいくと、すっかり空き地となっていた

それを見て僕はまた、この町にくる理由が減ったなぁ、と思って、歩いて家に帰った