駒津の記録

僕の考えていたことや経験したことを書きます 

祈る ということ

あけましておめでとうございます

 

去年の頭の方に、2022年を振り返る、みたいなこともやろうとしましたが、結局上半期しか振り返らず、だらだらと、せかせかと生きているうちに時間は流れていってしまいました。

 

ケムリ作りはじめて2年経って、少しは美味しいものをつくれるようになったかな、とも思ってきましたがまだまだ井の中のおたまじゃくしだと思って、この生活が許されている間は頑張っていきたいな、とおもっています。

 

さて、新年といえば初詣です

今年を無事に迎えられたことの感謝だったり、この一年もいいことがありますように、だったり、純粋にカミサマに挨拶をしに行くだったり、トモダチとかすきなひとと会うのが目的だったり、人によって目的は様々でしょうが、その場所にさえ行けば皆様は何かを願ったり、祈ったりしていると思います

僕は某宗教の3世で、初詣などに気楽に行けるようになったのも大学に入ってからくらいで、それまではそういうところに行き、なにか祈ることに抵抗を少しだけ感じていたのを覚えています

僕にとってはそれが当たり前で育ってきてましたから

幼少期は近所の人の家に集まってオハナシしたり、新年は会館に集まっていたりしましたが、中学生時代にポロっと自分はどこどこのアレだ、と言った際、うちのトップはネットでもよく知られていたので、それで距離を置かれたことにとても驚きました

別にどちらが悪いということはないです、僕は生まれを後悔したことはないし、その同級生だって実態こそ知らないだろうけどそういう団体に良いイメージは無く、身近にそんな人がいれば警戒する、というのは、マトモな人なら当たり前だと思いますから

 

しかし恐らくその出来事も影響してなのか、今の僕が、基本どんな人も受け入れられるような人間になれたんだろうな、と思います

親が昔の同級生の家に選挙のお願いをしに行った、というような話を聞くと少しウッとなる、また居づらくなるのか、というようなきもちにはなりますが

 

ようやっと本題です

祈る(願う)、という行為についてです

この三ヶ日は日本人が最も祈る願う3日間ではないでしょうか

他人の考えていることはわからないし、この先も一生わかることなんて無いのですが、僕は皆さんが神社で、こんな時、何を思って手を合わせているのかな、と聞いてみたくなることがあります

 

僕の中では「願う」は自分本意なもので、「祈る」は第三者に向けたり、自分ではどうしようもない事象に対する思いなのかな、と考えていますが、今回はその中でも祈る ということについてです

どんな宗教でも、祈る、という行為自体は善き行いであると僕は思っています

他人の幸せを思う、無事を思う、安寧を思う

勿論そんなことをする暇があるならその相手に何かしてやればいいじゃないか、自己満足だろう、と言われればそうなのかもしれないけど、それこそ先述したように、僕にはもうどうしてあげることもできないような人だって居ますし、せめて、自己満足でもいいから、僕のなかで祈ることで、僕の中に救いが欲しいんですよ

 

インターネットを見ていると、現代はすっかり悪いニュースばかりで、見ていて気分が暗くなる一方で、どこにも救いはないように思えてきてしまうから、自分のために、そしてあわよくば皆さんのために、僕はそういう時は大抵、皆様の幸せを祈っています

親族、好きな人、最近知り合った人、もう会えない人、一緒に働いてくれる人達、お客さん、友人、みんなの、せめて僕の目に映る人達だけでも、一人でも多くの人の顔を思い浮かべておきます

 

なので皆様が今日まで無事でしたらそれはきっと僕のお陰です、感謝してください

 

 

親族達の仏壇には、小さい紙にいくつか名前が書いてあって、その人達の幸せを願っていしました、僕もノートに皆様の名前を書いてみようかな、とも思ったりしますが、それは不気味がるひとも多いだろうな、と思いました

 

これを読んでくれた人達も、どうかこの先安心した日々が続きますように